月のはなし
実は昔、人間でないやつと一緒に酒を飲んだことがある。
彼と出会ったのは、僕が大学を卒業してから、見知らぬ土地で働き始めて数ヶ月たった頃の、夏の夜だった。
そのころは、じっとしていても滝のように汗が吹き出すような、うんざりする暑さが続いていたのだけれど
日が暮れるといくらか涼しくなって、ゆるゆると風が流れたりなんかする夜は、ふらふらとビール片手に散歩するのには、ちょうどよかった。
あの夜も、肌をしっとりと撫でるような生あたたかい風が、ゆったりと流れていて
空を見上げると、雲一つない真っ暗な夜空に、大きな満月が、白く、静かに光っていたのをよく覚えている。
○ ○ ○
僕は、仕事の帰りにビールやおつまみなんかをコンビニで買って、川べりのひんやりとしたコンクリートに腰を落として、ぼんやりとその月を見上げていた。
なんとなしに暗い川の流れに視線を落とすと、ちょうどその先に、川面の流れがおかしな場所がある。他は静かなのに、その場所だけもやもやと波が立っているような気がする。なぜだか分からないけれど、その場所に「何かがいる」とすぐにわかった。
なにがいるんだろう。ビール片手に川の奥を覗き込むと、そこに人の大きさほどの黒い影がゆらゆら揺れている。普通ならきっと、怖くなって心臓がドキドキして逃げ出したくなるんだけれど、何故かその時は、やけに落ち着いていて、黙ったまま、膝の上に組んだ腕にあごをのせて、ただ、じーっと、それを見つめていた。
その影は、ゆらゆらと、ゆっくり僕の足下まで近づいて来て、ちゃぽんと水面から顔を出し、コンクリートにその短い前足をペタリとついたかと思えば、その上半身をのそりと浮かして、その小さな目で僕の顔をじーっと覗き込んだのであった。
このとき初めて、それが立派な成体のオオサンショウウオであるとわかった。
僕の顔をしばらく眺めたのちに、彼はじゃぶじゃぶと陸へ上陸し、体育座りで行儀よく月を観察していた僕のすぐ脇をのそのそと通り過ぎて、背中側に周り、反対脇から顔をだして、僕の身体をぐるり囲むようにして、そこでぺたりと身体を落ち着けたようだった。
僕の左には彼の大きな尻尾がのろりと垂れていて、僕の右にはぺたりとコンクリートにあごをくっつけた彼の顔がある。
このまま背中を倒せば、ちょうどいいクッションになるだろうな、と思ったけれど、彼はびしょびしょで、ぬるぬるしてそうだし、なにより、会ったばかりの奴にいきなりクッション扱いされるのは、オオサンショウウオといえども、あまりいい気がしないだろうなと思ったので、やめておいた。
…それにしてもどういうつもりなんだろう。
僕と仲良くしたいのだろうか。
そっと、目の端でそいつの顔を観察してみた。
よく熟したアボガドの皮みたいな、ボコボコした茶色い皮膚が、てらてらと光っている。
目は身体の割に小さくて、どこを見てるのかよくわからない。川の流れを眺めているのだろうか。
口はとても大きくて、どことなく、ニコニコしているように…見えなくもない。
ふと思った。川の神様かもしれない。神様は人の言葉がわかるのかしら。
「はろー」
「…」
返事が無い。ただのオオサンショウウオのようだ…。なにをしているんだ僕は。
お腹がすいているのだろうか。コンビニで買ってきたスモークタンを与えてみる。口の前に置いてみたけれど、あまり興味がないらしい。ぷいっとあさってのほうを向いてしまった。
しばらくそっぽむいてから、また、のそりと僕の方をみる。
いや、僕ではない。僕の左手に持ったビールを見ている。
こいつまさか…。
ビールの缶を顔に近づけてやる。彼はゆっくりと僕のほうをみてから、その大きな口をあんぐり開けた。
野性の生き物にアルコールを与えることには些か躊躇があったが、いまは相手がそれを望んでいるようなので、まあよしとする。
ただし、まだ出会ったばかりの我々に間接キスは早いであろうと思われたので、彼の口に当たらないように、トクトクと、ひとくち分だけ、お裾分けしてやった。
彼は口をゆっくり口を閉じて、ごくりとそれを飲み込むと、ぎゅっと身体をかたくして、身震いをして、ちょっとの沈黙のあと、ゆっくりとまた身体を伸ばして、大きな口を開いた。
「きゅう。」
なんとも気の抜けた音が、いや恐らく本当に、文字通り、気の抜けている音なのだろうけれど、彼の喉の奥から鳴った。
こいつはアボカドのような顔をして可愛らしいゲップを放ったのである。
こいつ、ずうずうしく人にビールをお裾分けしてもらったあげく、ゲップでその感想を述べてくるとは、、、。
可愛いやつめ!
良いことを思いついたので、もう一口飲ませてみる。
「おいしいかい。これはビールっていうんだぜ。」
「きゅう。」
…まるで会話しているかのようである。
大学を卒業してから、夜の川辺で酒を飲み交わすような友達が出来ないことを、密かに思い悩んでいたけれど、その記念すべき第一号が人間でない相手になるとは思っていなかった。
もう一口飲ませる。
「見てごらん。今日は月が綺麗だよ。」
「きゅう。」
彼は、まるで空を見上げるそぶりを見せず、川のほうを見たまま返事をする。と言いつつも、おそらくは骨格上、空高く位置する月を見上げることが出来ないのである。だっこして無理矢理にでも見せてやろうかと思ったが、変温動物の彼にとって僕の体温は熱すぎるだろうと思って、やめといた。
彼は、ぺたりとコンクリートにあごをくっつけたまま、じっと川のほうを見ている。
「…」
「ねえ、君は…」
言葉を途中で止めて、僕はゴクゴクとビールを飲み干した。
空を見上げて、大きな明るい月を眺める。
途端に寂しい気持ちになって、心臓から冷たい水がじわっと溢れ出るような、そんな感覚が胸に広がる。
僕は、誰も自分のことを知らない土地で、いったい何をしているんだろうか。
せめて、こんなに綺麗な月を、側に寄り添って、一緒に見てくれる人がいてくれたらな…。
「きゅう。」
「お前がいたね。ごめんよ。…ありがとう。」
目を閉じて、静かに川の音を聞く。
○ ○ ○
カランコロン
空き缶が乾いた音を立てて、コンクリートの上を転がった。
うとうとしていて手からうっかり落としたらしい。
はっと気づくと、彼の姿はもうどこにもなかった。どうやら夢を見ていたらしい。
ひんやりしめったコンクリートに手をついて立ち上がり、空き缶を拾い上げる。
川の流れは静かで、その水面には、大きな満月が、静かにゆらゆらと漂っていた。