境目のはなし
風邪をひいてしまい、三日三晩じっくりことこと寝込んでいました。
週半ばから布団に潜り込み、そのまま三連休に突入したので、期せずして6連休の取得になってしまったわけなんですが、まるで嬉しくありません。
→(たったの6連休でこのおれが満足すると思うなよ。)
体調不良で寝込むといつも小さい頃に高熱で寝込んだとき見た夢を思い出す。
幼い頃、何の病気が原因かはさっぱり覚えていないけど、とにかく強烈に体調が悪くなり、両親に夜間救急に連れて行ってもらった。そして多分、「命」とか「死ぬ」とか「生きる」とかそういうことを理解しはじめたくらいの年頃で、そのとき人生ではじめて「自分自身が死ぬこと」と「それがとても怖いということ」が言葉として、概念として、体験として繫がったタイミングだったのだと思う。
熱でうなされながら自分はもう「死ぬ」のだろうかということを繰り返し考えて、それが怖くて怖くてたまらなくて、看病されながら何度も「もうしんじゃうの?」と両親に聞いたことを覚えている。
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同年代の子どもがたくさん遊ぶ校庭。
だだっ広いフィールドを1本の白線が2分していて、その片側だけのフィールドで子どもたちはめいめい好き勝手に走り回っている。
自分も走り回る子どもの1人なんだけれど、あるとき、何となしに、その線を跨いで向こう側へ出てしまう。
また線の内側へ戻ろうとすると、どうしても身体の一部が「ひっかかって」戻れない。正面をきって跨ぐと背中が引っかかって離れない。横向きに左脚から跨ぐと右手の指先が引っかかって離れない。
線の向こうに完全に身体を移すことがどうしても出来ない。
自分はいくら頑張っても白線の向こう側へはもう戻れなくなってしまっていることに気づくけれど、線の向こう側で走り回る皆はそれに気づかない。
そのうち、子どもたちは校庭から去って行くんだけれど、自分だけは白線の向こう側に取り残されたまま、立ち尽くしている。
どうして跨いでしまったんだろうという強い後悔と、もう絶対に引き返すことが出来ないという絶望。そして、これ以上ないほどの寂しさ。
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この夢が、死のイメージと強烈にリンクしている。
反対側でどれだけ走り回ったり、覗き込んだり、片足を突っ込んでみたりしても平気なんだけれど、絶対に絶対に線を跨いで、向こう側へ渡り切ってはいけない。
一度跨ぎきってしまったら最後絶対に引き返せない。それが死。
自分は、境目というものが時と場所を問わず「あの世」と重なり合っている、繫がり合っている、というイメージがどうしてもあって、大人になったいまでもちょいちょいと敏感になってしまう時がある。
神社の鳥居。
敷居や畳の縁。
踏切。
などなど。
なかでも最も恐ろしいのは、ちょっとだけ開いている、奥が真っ暗のクローゼット。
単なる隙間のなのに、本来仕切られているべき場所が仕切られていない、というだけで何となく怖くなってしまう。
そこに「あの世」が混じり合っていて、こちらを覗いているのではないか、と思ってしまう。