価値のはなし

 別に人に言うことでもないんだけれど、普通に暮らしてるとなかなか人に言う機会もなくて、でも、なんとなく誰かには知っておいて欲しいっていう気持ちがあり、あとで恥ずかしくなったら消すけれど、僕が仕事中に考えてることなどを書きます。

 

自分の仕事はまあまあ忙しくって、朝デスクについたら、椅子から立ち上がったり座ったり、パソコンや封筒を開けたり閉めたりしてると、あっという間に夜になる、って感じで、毎日、暇な時間ってものがほとんどないんですけど

 

中には頭をまったく使わないけどめちゃんこ忙しい仕事があって、その仕事をやってる時間帯は手を動かしながら、頭の中では仕事とぜんぜん関係ないことばっかり考えてて

 

たとえば、昨日みた映画を初めから最後まで全部順番に思い出すとか、最近読んだ本の面白かったところを思い出すとか、昼ご飯、晩ご飯、何を食べようかなとか。

 

でもたまに、もうちょっと、まとまったことを考えるときもあって、ふあふあと考えがまとまったりしたときに、あーこれ文章に残しておきたいなーって考えつつも、わざわざ書き起こすのもめんどうで頭の片隅に放っておくことがあって。結局しばらく時間が経つと忘れちゃって、あーあ、ってなったりするんだけど、ちょっと今回、試しに一つ、仕事中に考えたことを文章に残してみようかなと思って。実験的にこの文章を書いています。

 

書こうと思うのは「価値の話」です。

 

 

僕としては、「価値」っていう言葉からは、まずお金ってものが思い浮かぶので、お金のことを考えるところから始めます。

 

「世の中お金が全てである」って言う人がいるけど、それは本当か。っていうところから。

 

世の中お金が全てである、という言葉を、考えやすいように、ちょっと言い換えます。

 

「世の中お金がすべてである」→「世の中のものはすべてお金で買える」

 

いまどき世の中のほとんどのものがお金で買えるだろって言う人と、お金で買えないものだってあるだろって言う人がいると思います。

 

後者の人がお金で買えないものとしてよく挙げるのは、愛情とか友情ですね。(めんどくさいのできちんと定義しません)

 

愛情や友情といったものは、個人の生きた時間の積み重ねから生じるものなので、それ自体を他人がお金と引き換えに自分のものにすることはできません。

 

でも、愛情とか友情ってものが芽生えたり、維持されたりするときって、そこから、お金は切っても切りはなせないものです。仲良くなりたい人とご飯にいったり、仲のいい友達と一緒に遊んだり、何をするにも、だいたいお金が要ります。それって間接的に、愛情や友情をお金で買っていることになるかもしれません。

 

…じゃあ、結局、世の中お金が全てなのだろうか

 

 

この話は一旦置いておいて

 

次に、ものを買うこと、と、その「もの」の価値について、考えてみます。

 

ものを買うとは、お金でないものとお金を交換して、お金でないものを手に入れる行為であると言えると思います。

 

100円で売っている本があったとして、それを買いたい時は、100円と本を交換することで、自分のものにできます。

 

では、100円の本を買ったとき。この本の「価値」とは何か。

 

本の価値を「100円」だとします。

 

100円の価値も「100円」です。

 

このとき、この本を買うという行為は、「100円」と「100円」を交換する、全く無意味な行為であるように思えます。

 

なんか変です。

 

どこか間違えている気がします。どこが間違えているのか。

 

本の価値は「100円」である。ここじゃないでしょうか。

 

100円なのは本の「値段」です。それは本の「価値」ではありません。

 

100円の本を買う人は、その本に100円という値段以上の、なんらかの「価値」を見いだしているからこそ、100円と本を交換するのではないでしょうか。

 

…では、その「価値」とは

 

この話も一旦おいておきます。

 

本の購入から、「ものの値段」=「ものの価値」ではない、ことがわかりました。

 

考えてみれば当たり前のことです。でも、残念ながら、世の中にはこれをイコールであると考えてしまうひとがたくさんいます。

 

イコールであると思い込むと何がいけないのか。

 

2つの関係をイコールで考えると、「ものの価値」を「お金」で測ってしまうことになります。

 

1億歩譲ってここまでは良いとします。ここから先が良くありません。

 

「ものの価値」を「お金」で測ってしまう人は、「お金」で測れないもの、測りづらいものを

 

「価値のないもの」、「価値の低いもの」と見なしてしまいます。

 

 

たとえば、文系の学問(哲学や文学)は金稼ぎにつながりにくい(お金で評価しづらい)ので、価値の低いものと見なされます。お金にならない友達付き合いや恋人と過ごす時間、娯楽(ボーリング、カラオケ、ビリヤード、ダーツ、映画、maimaiなど)なども軽視されます。  

 

人が趣味に夢中になってるときに、それに対して、「そんなことをやってなんの「意味」があるのか?」と軽々しく言う人がいますが、こういうひとは恐らく「価値」と「値段」をイコールで考えてしまっている人です。

 

そして、「意味」という言葉を「価値」という意味で使っています。

 

これがこういった個人的なレベルで収まっていればよいですが(よくない)、悲しいことに、社会では収まっていません。

 

高校を卒業すると、「そんなことやってなんの意味があるのか?」という問いによって、そのものの「値段」を問われることが多くあります。残念ながら、学問の世界であっても、そういうことがあります。

 

上手に生きて行くためには、その問いに対して、「これをやるとこんな風にお金になるんです」という回答を繰り返さなくてはいけません。かなしいせかい

 

 注意しなくてはいけないのは、その回答を繰り返すことによって、意味=価値=値段 と、すべてがイコールで繫がってしまうことがある(よくある)ということです。全部別々のはずなのにそう考えてしまっている人が世の中にはたくさんいます。

 

 

世の中には、本当はかけがえのない価値をもっているはずのものが、美しいものが、人間の尊い営みが、たくさん溢れているのに、ものの価値を値段で測ってしまうと、それらが、とたんに色褪せてしまって、その意味すら失ってしまうことがあります。

 

世の中お金が全てではありません。僕はそう思います。

 

 
それが自分にとってどういう「価値」をもつのか。

 

自分にとって「価値」のあるものとはなんなのか。

 

 

そういうことを考えつづけることが人生の意味であると僕は思います。

 

 

美しいものを、尊いものを、くもりない目で、みつめることができる。

 

そんな人になれたら