正方形の円のはなし

最近ずっと考えてることがあって、まとまったらブログに書こうと思ってたんですけど、まとまらないので、まとまらないまま文章にしてみます。

 

僕は文章を書きながら考えるタイプなので、とりあえず書き始めればまとまるかも、という淡い希望もあるんですけれど。

 

僕自身の世界観なんですけど、「この世がどんな風にできてるのか」ってはなしと、「だからなんなのか」をしたいと思います。この考えが、正しいとか、正しくないとか、あると思うけれど、基本的に確かめようのないことだと思いますし、僕自身も、なんとなく、こんな気がする…。ってくらいにしか考えてません。

 

まず、この世には、三種類くらいの世界があるのかなー?と思っていて、

 

1つめが、人間の認識の有無にかかわらず存在する物理的世界。ただただ、ものの世界。

 

2つめが、1つめの世界のなかで、人間が認識しうる、理解しうる範囲の、物理的世界。この2つめの世界が通常、僕たちが考えている、誰にとっても共通と考えられている世界。

 

3つめが、2つめの世界を元にして、模倣して生まれた、言語やイメージの世界。これは、誰しにも共通の世界ではなくって、実は、それぞれの人間の脳みその中の世界。

 

 

僕は、2つ目の世界については、人間は人間が理解できるようにしか1つ目の世界を認識できないと、逆に、人間が認識しうる世界は人間に理解することも可能であるとも、と思っている。

 

数学や、物理学が発展する時代、人々は、それらが頭のなかで生まれた世界(3つめの世界)のものなのに、現実世界(2つ目の世界)とぴったり一致しているように見えて、そして、なんと未来の予測にさえ使える、ということに、大変驚いて、不思議がったそうなんだけれど

 

僕が思うに、それは上のことが理由で、まず、人間は自分たちが理解出来る範囲でしか、世界を認識することが出来ないんだけど、人間が認識できるものは3つめの世界に落とし込んで、人間なりに理解が可能なのではないかと思う。

 

まったく無関係に思える、頭の中の世界と、物理的世界が驚異的な一致を見せるのはそのせいなんじゃないかと思ってる。

 

数学や、物理は、2つめの世界を、そのル—ルを、かなり純粋に洗練された形で、3つめの世界に持ち込んだものなのではないかと思う。人間の認識のもとのおおもとの形。

 

 

2つめの世界をイメージするとき、大抵、世界に「色」がついていると思うんだけれど、その色だって、結局人間の認識の範囲内での世界にすぎない。

 

だけど、2つめの世界は、人間の認識だけで出来てるのかって言うと、それもちょっと乱暴で、例えば、ボールが跳ねたりする運動は、人間の認識とは関係なしに、存在しているとしか、どうも思えなくって、だから、やっぱり、まず1つめの世界はあるんだと思う。

 

僕が、一番最近気になっているのは、3つめの世界の、とりわけ、言葉というものなんだけれど、言葉には、なんとなくだけれど、2つめの世界をもとにして生まれたものと、3つめの世界をもとにして生まれたものがあるんじゃないかと思う。

 

言葉とその意味が完全に一対一で対応していると考えている人がこの世にはいるようだけど、多分ウィトゲンシュタインっていう哲学者はそういう考えだったんじゃあないかなあ。

 

僕はおそらく、2つめの世界をもとにして生まれた言葉は、この理解でおおかた間違いがなくって、そして、2つめの世界をもとにして生まれた言葉には、2つめの世界のルールを適用した分析、つまり、物理的な、数学的な分析が可能なのではないかと思う。

 

それを究極的に突き詰めたのが、「論理哲学論考

 

そして、いわゆる、論理的な文章、とは、実は、物理的な文章、と言い換えることも出来るのではないかと思ってる。2つめの世界のルールは共通了解を得やすいため。

 

話がそれたけど、それは置いといて、僕が最近思うのは、言葉には、別々の世界出身のものがあって、それぞれ出身の世界のルールを適応するのは、いいんだけれど、それぞれの出身とは別の世界のルールを適用するのは、ルール違反なのではないか。と思ってる。

 

たとえば、2つめの世界のひとつのルールとして、「決してものが重なり合わない。」というものがあると思うんだけど

 

3つめの世界では、それが簡単に起きる。

 

「正方形の円」ってこの2つめの世界には、決して存在しないはずなのに、3つめの世界(言葉)の世界ではこうやって簡単に出現する。

 

これは、3つめの世界では、2つめの世界のルールは必ずしも守られないと言うことなんじゃないかと思う。

 

 

 

そして、僕が今回のブログ記事で、一番言いたいのは、2つめの世界のルールのひとつの「因果の法則」、これを、3つめの世界出身の言葉に安易に適用するのは、大変にまずいことなのではないかと

 

つまり、例えば、誰かを好きだ。とか誰かを愛してる。っていうことを、

 

「なぜ?」という問いによって、説明すること。

 

〜「だから」、好き。とか、〜「だから」、愛してる。

 

って言う風に「理由」を作ってしまうこと。

 

 

これって、知らず知らずのうちに、3つめの世界に、2つめの世界のルールを適用してしまっている行為、つまり、ルール違反な行為なんじゃないかと思う。

 

 

これを、やってしまうと、何がまずいかというと

 

僕が思うに2つめの世界のもの特徴として、「壊れやすい」ってのがあると思っていて

 

3つめの世界のものを2つめの世界のルールで表現すると、途端にそれは「壊れやすいもの」になってしまうんじゃないかと思う

 

本当はもっと壊れにくいもののはずなのに。

 

 

結局なにが良いたいのかというと、人のことを好きだ、って思う気持ちがあるときには、なんで好きなのか?って考えるのではなくって、どこが好きなのか?って考えたほうが人はずっと幸せだと思います。ということです。

 

理由なんてものは、大抵、後付けにすぎないしね。

 

 

読み返しても、多分これは人が読んでもまじで意味分からんなーこれはという感じですけど、とりあえず考えを外に出してみたかったので、今回はこれでいいや。