長く短い祭のはなし

僕はこれまでの人生で、「刹那(短い時間)的なものごとの美しさやその意味」なんてものは、正直なところいまいち理解できないでいて、さして重要なものでもないと考えていた(消えてなくなってしまったらそれでおしまいだから、と思っていた)のですが、去年の夏にある映像作品と出会って、その意味や、それ自体を考えることが、人生において、大変重要なことなのではないかと思い始めるようになりました。

 

今から書くのは、その映像の感想文です。読書感想文みたいなものです。以下に映像のリンクを張ってみます。

 椎名林檎 - 長く短い祭

 

僕がこのMVをはじめて見た時は、かなり強烈な衝撃を受けて、思わず家の外に飛び出して、でたらめに夏の夜の街を走ったり歩いたりしながら、このMVに込められたメッセージについて一晩中考え込んでしまいました。

 

 他の人はこのMVにどんな感想を抱いたんだろうと思って、他人の感想なども読みまくったりもしたけれど、どうも自分の考えたことと同じことが書かれている内容が無くって、なんだ…、おかしいな…、と思ったまま、当時そのまま黙って心の奥にしまいこんでしまったのですが、

 

今回は、そのとき考えたことや、そして今考えることを、文字に起こしてみたいと思います。これは誰にでも関係のあることなんじゃないかなと思ったので。あと、書いておかないとそのうち忘れると思うので。

 

他人の感想が知りたくって、なかでも僕が熱心に読んだのは以下の2つのブログです。

 

http://motsurima.hatenablog.com/entry/2015/08/26/032834

 

http://onaka.hatenadiary.com/entry/2015/08/06/225341

 

どちらもかなり詳細に丁寧に歌詞と映像の分析がなされていて、自分の見落としていた部分もたくさんあって、大変よく書かれているなあと思いました。

 

そして、この映像はたぶん、人によってかなり感じるところ、思うところが違くて、僕と同じように、他の人はこの映像をみてどう思ったのだろう?と考えるひとが沢山いるのではないか、と思ったので、前掲のブログと内容が被る部分もあると思いますが、僕は、僕自身の思うところを、このブログで書き表してみたいと思います。映像や歌詞の確認や分析はすでに前掲のブログにて十分になされていると思われるので割愛します。

 

MVは、簡単にまとめると、愛する男を殺めた女が、夜の公園で踊り狂ったあと、警察に逮捕されて終わる、というストーリーなんですが、この「非日常」と思われるストーリーがどうしても僕には、他人事には思えなくって、たぶんこれはMVを見た、僕以外の多くの人にとってもそうなのではないかと思っています。

 

実際、このMVの視聴回数は、同じ椎名林檎東京事変だけど)の曲で、そしてずっと前に公開されている「群青日和」のMVのそれを遥かに追い越して、2倍以上になっているようです。

 

この映像はなぜここまで人を引きつけるのか。

 

それは、描かれている女の姿が、「単なる狂気」を表すものではなくて、誰にとっても身近で、見に覚えのあるはずの、ごくごく当たり前な人間の姿だからなのではないか、と考えています。だからこそ、見る人の多くの心に突き刺さる内容なのではないか、と。

 

 描かれている、誰にとっても身近なもの、それはなにかというと、「自分自身を誰かに認めてもらいたい。そうでなければ、人生やってられない。」という想いです。

 

MVにおいては、女は自身の思う、自分自身の価値や、そして、その情熱的な想いを、愛する男に認めて欲しかったのではないでしょうか。そして、そうでなくては、その価値や想いは、完全に否定されてしまうものであると、まったくの無意味なものであると、自分の人生すらも無駄になってしまうと、そう考えたのではないでしょうか。

 

けれども、その想いは成就しなかった。否定された、完成しなかったと思われたその想いは、行き場を失ってしまって、さらなる熱を帯びて、鋭くとがって、彼に突き刺さった。

 

その行動は、決して、思い通りにいかなかったから、男のことを嫌いになった。というただそれだけから成る結果ではなくって、自分の人生を否定されたくないという想いや、相手のことを本当に愛しているという、一見、矛盾するようにも思えるものだけれど、確かに存在する想いのすべてが、ありのまま混ざり合ったものの、発露であったのではないかと思います。

 

 そして、そういった複雑な想いや、それに伴う行動は、世の中に、当たり前のように存在する愛の形のひとつなのではないかと僕は思います。普通と少し違うところがあるとすれば、少々尖り過ぎてしまった(相手が死んじゃった)というところですけど。まあそれはいいとして。

 

 彼を殺めたあとも、その熱く鋭い想いは、冷えきった身体をよそに、依然として消えることなく彷徨い続けます。

 

本当に認めて貰いたかった人の亡きいま、もうその願いが成就することは、あり得ないのにも関わらず。

 

彼女が夜の公園で、着ているものを、脱ぎさりながら、もう一度、踊り出したのは、その価値を、美しさを、自分の人生の意味を、他人の「目」によってではなく、自分自身の「目」で、確かめるためだったのではないでしょうか。

 

そして、その表情から察するに、彼女は、身体に残った想いの、その意味を、そしてその価値を、その美しさを悟ったのかもしれません。

 

正直なところ、それがどういったものか、僕にはまだはっきりと分からないのですが。

 

 人は誰しもが、みな自分のことを、その外面も、その内面も、そこから生まれる気持ちも、考えも、誰かにとっての特別でありたくて、知ってもらいたくて、そう感じてもらいたくて、認められたい、という気持ちを持っていると思います。

 

でもその願いが、その祈りが、成就しなかったとき、その「誰か」をとりはがしたとき、失ったときに、そこに残るものはなんなのか。

 

 一体、それになんの意味があるのか。そのあとに続く人生に何の意味があるのか。それをどう確かめたらいいのか。

 

人間は、長く、短い時間の連続を生きていて、そんな人生を幸せに生きるにはどうしたらいいのか。

 

 

 

知ってる人がいたら教えてください。僕も考え中です。

 

 

 僕は、意味や価値という言葉にとらわれすぎてるのかなーとも思います。ただの言葉にすぎないと言われてしまえば、それまでのような気もするし、一方で、言葉はなくても世界は存在しているはずなんだけれど、言葉の生み出す世界が、人間の住む世界そのものであるとも言える気がしていて、だとしたら、自分はその意味を、どうしても考えずにはいられないなと思います。